2012 年 8 月 12 日 メッセージ“安息日論争”

2012 年 8 月 12 日 メッセージ“安息日論争”

聖書箇所「マタイ伝12章1~8節」
「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「御覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」

1 安息日とは?
・ユダヤ教の安息日は、モーセの時代から現在に至るまで、金曜日の日没
から土曜日の日没までです。
・イエスとパリサイ人の論争はミシュナ的律法(イエスの時代はまだ文字化
されておらず、先祖からの言い伝えの事で、口伝律法と言われています)
を中心に展開しましたが、その中心は安息日をどう捉えるかという事でした。
・ユダヤ教で最も重要なものは神殿ですが、現在は神殿は破壊されて存在し
ないので、安息日が最も大切なこととして捉えられています。
・ユダヤ教では、安息日を神の女王やイスラエルの花嫁と呼んで象徴的に
捉えています。

1)安息日が与えられた経緯
・ 神がモーセに与えられた十戒の中の第4番目の戒め
出エジプト紀20章8~10節
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない-あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も-」
・ その2つの理由
イ)出エジプト紀20章11節
「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」
・ 神が天地創造を終えられて休まれたのが7日目です。
ロ)申命紀5章15節
  「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」
・ 奴隷から自由人になったことを覚えるため。
◎ 安息日の霊的意味
・ 旧約聖書の出来事は、新約聖書において成就する出来事の霊的象徴的意味を含んでいる場合が多いです。
・ 神が人間に本当に与えたい安息とは何でしょうか。
ヘブル書4章10節
「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
マタイ伝11章28節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
・ つまり神は霊的な心の安息のことを言っているのです。
・ 上記に載せたヘブル書4章で
神は、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、カナンの地、乳と蜜の流れる安息の地に連れて行こうとされました。しかしイスラエルの民は神を信ぜず、荒野で神に向かってつぶやいてばかりいました。そのため、不信仰のゆえに、その世代の人達はカナンの地(約束の地)に入ることが出来ませんでした。神の御言葉を信じなかった不信仰のゆえに、約束の地に入れなかったのです。
「こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、」(ヘブル書4章6節)
そこで神は
「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」
(ヘブル書4章7節)
と語られたのです。

「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創世記1章27節)
このことが起こったのが天地創造の第6日目です。
「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」(創世記2章1~3節)

・ この創世記の記事から、人間が造られたのは天地創造の第6日目です。ですから、人間にとっての第1日目は神の創造の業の第7日目に当たります。第7日目は、神が安息の日として休まれた日です。人間は第1日目から神の安息の中に入れられていたのです。人間は創られた最初から神の安息の中にあったのです。人間にとっては、「神と共にある」ということが本来の創造された時の姿で、安息の根源なのです。
・ ところが人間は、神の言葉に不従順でその御言葉を信頼せず、罪を犯してしまいました。そこから死と苦しみが始まりました。罪を犯した結果、神から引き離されたということが根源なのです。
・ 人間は創造の始めから、神と共にあるということが命であり安息であるのです。また、人間にとって神から離れた状態というのは死んだ状態なのです。

② マタイ伝12章1節の安息日論争の話に戻ります。
「弟子達はひもじくなったので穂を摘んで食べ始めた」
1)パリサイ人の糾弾
・ イスラエルでは、旅人がひもじい時に穂を摘んで食べることは許されていました。畑に入って食べることは一般的には罪ではなかったのです。現在でもそうです。
・ ここでパリサイ人が糾弾したのは、それを安息日にしたという点についてです。
・ 神はモーセに「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という1つの戒めを与えましたが、パリサイ人達はその下に 1,500 もの細則を付け加えていました。
・ パリサイ人達は「安息日には、どんな仕事もしてはならない」の戒めを元に彼らが 作った1500の細則の内の、4つの規則を破ったと言うことでイエスの弟子達を責めました。
・ パリサイ人達が責めた、その4つの規則とは
(1) 穂を摘むこと-収穫の罪
(2) 手で揉むこと-実と籾殻とを分ける労働の罪
(3) 実と籾殻と分けたこと-それらをフッと息で飛ばす罪
(4) 食べること-「安息日に麦を蓄えてはならない」のもとにおなかを倉に喩えて、貯蔵する罪
2)それに対するイエスの反論
(1)ダビデが何をしたか
第1サムエル21章1節~6節
聖別されたパン-聖所の中に供えられる12個の供えのパン。
    これは安息日毎に取り替えられる。
これは聖所で祭司だけが食べることが出来ました。
(イスラエルの12部族を記念して、聖所の中の純金の机の上に、パンが6個ずつ2列に置かれた。金曜日の午後、日没前、種なしパンとして焼き、安息日に新しいパンが供えらえると古いパンは下げられ祭司が食べていた)
・ ヨハネ伝6章48節
「私は命のパンです」
聖所のパンとは、イエス・キリスト御自身を表しています。
・ 下げられた聖所のパンは、普通は祭司が食べるのですが、モーセはそのパンを他の者にあげてはいけないと言う規定は設けてはいません。
・ しかしパリサイ人は禁止していました。
・ パリサイ人達は、このダビデの行為(供えのパンを食べたこと、ダビデは祭司ではない)を批判してはいませんでした。

◎イエスは安息日でも、憐れみの行為は赦されるのだと彼等に言われました。

(2)宮に居る祭司達には安息日の規定は適用されない。
・ 祭司は毎日、捧げる義務があった。安息日にはその2倍を捧げ通常の2倍、忙しかった。
・祭司達には安息日のみに行う儀式もあった。
・日々の奉仕としての聖所内での働き、朝晩、香を焚き、金の燭台に火を灯す事、年間を
通して365日、1日も欠かしてはならない奉仕でした。
・旧約時代にあっても、聖所は別格でした。安息日の律法は適応されないのです。
つまり、「神と共に在る」と言う事が安息なのです。神に仕えるという事が人間の本来の姿です。

伝道者の書12章13節
「神を恐れ、その戒めを守れ、これは凡ての人の本分たり」(文語訳)

     (3)「ここに宮より大きな者がいるのです」
宮の中で働く者が安息日の規定が適用されないのなら、私は宮より大なる者だから、当然、安息日の律法以上である、と言われた。
これはイエスのメシア宣言です。
     (4)「私は憐れみを好むが、いけにえは好まない」
    ホセア書6章6節
「私は誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ、神を知ることを喜ぶ」

・神が律法を与えられたその御心とは・・・・
安息日でも憐れみの業は赦されている。
安息日でも食べること、癒すことなどは常に赦されていた。
・パリサイ人達は神が安息日を与えられた、その御心が判っていませんでした。

 (5)「人の子は安息日の主です」
    マルコ伝2章27節
    「安息日は人間の為に設けられたのです。人間が安息日の為に造られたのではありません」
・人の子(メシヤの称号)は安息日の主だから赦したり禁止したりする自由があっても良
い筈とイエスは言われた。
・パリサイ人達は安息日の為に、イスラエルは作られたと言っていた。
・ 安息日はイスラエルに安息を与える為であって、規則によって人々を奴隷状態にする為
ではない。1つの戒めに 1,500 もの規則を作ることは人々を奴隷化することである。

② 安息日論争の続き
・マタイ伝12章9~14節までは安息日論争の続きです。
イエスが安息日に片手のなえた人を癒すかどうか注視していた。
・マタイ伝12章12節
「人間は羊より、遙かに値うちのあるものでしょう。それなら安息日に良いことをすることは正しいのです」
・イエスはここでも安息日でも憐れみの行為は赦されると言われた。
マタイ伝12章14節
「パリサイ人は出て行ってどのようにイエスを滅ぼそうかと相談した」
・パリサイ人達は、自分達を義(正しい)とし、イエスを拒否しました。
その結果、どうなったのでしょう。


白羽根シオン・キリスト教会