2012年8月5日(日)”メッセージ「天国は幼子たちのような者の国です」 聖書箇所:マタイ伝11章16~30節

①知恵の正しいことは、その行いが証明します。
 マタイ伝11章17節で「笛を吹いてやっても君達は踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても悲しまなかった」とイエスはこの時代を喩えています。彼らは同調しなかったので
1) ヨハネについては悪霊に憑かれているのだと言い
2) イエスについては取税人や罪人の仲間だと言う。

・しかし御言は次のように言っています。
マタイ伝7章15~20節
「偽予言者達に気を付けなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが
内は貪欲な狼です。
あなた方は、実によって彼らを見分けることができます。
ぶどうはいばらからは取れないし、いちぢくはあざみから取れる訳がないでしょう。
同様に良い木は皆、良い実を結ぶが悪い木は悪い実を結びます」
マタイ伝7章20節
「こういう訳で、あなた方は実によって彼らを見分けることが出来ます。」
実とは外に表れた行為と受け取って良いでしょう。
・そして、口先だけではなく、その考え、知恵が正しいならば、その行いによって証明
されなければならないとイエスはパリサイ人達に言われた。

②イエスが数々の力あるわざを行われた町々
 イエスは、彼らが神の業を見ながら悔い改めなかったので、彼らを責められた。
1) コラジン――ガリラヤ湖畔の町カペナウムの直ぐ北 4 Km 。
福音書にはほとんど出て来ないが、イエスが伝道され奇跡を
行われた町に違いない。
2)ベツサイダ――ガリラヤ湖畔北約 1.5 Km の町。ヨルダン川東岸。
         ルカ書9章10節――5つのパンと2つの魚で
5,000 人(男性のみの人数)を養う奇跡を行った町。
ヨハネ伝1章44節――ペテロ、アンデレ、ピリポの出身地
3)カペナウム――ガリラヤ湖畔の町、イエスが伝道の処点とされた町。
・ツロとシドン――地中海に面したフェニキアの著名な都市。
傲慢の故えに滅亡した町。
・ソドムとゴモラ――硫黄の火で滅ぼされた町。性的、道徳的に退廃した町。
創世記18章20節「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪は
極めて重い」
創世記19章24節「主はソドムとゴモラの上に硫黄の火を、天の主の処から
降らせ、これらの町々に低地全体とその町々の住民とその地の植物をみな滅ぼ
された」
・コラジン、ベツサイダ-「お前達のうちで行われた力ある技がツロとシドンで
行われたのだったら、彼らは、とうの昔に荒布をまとい灰を被って悔い改めていた
ことだろう」
・カペナウム-「どうしてお前が天に上げられることが有り得よう。ハデスに落と
されるのだ。お前の中でなされた力有る技が、もしソドムでなされたのだったら、
ソドムは今日まで残っていた事だろう」

③イエスがメシヤ(救い主、キリスト)であることを証明するもの4つ
・ここで聖書に顕されているキリストの証明を学びます。
●イエスを信じる為に
ヨハネ伝5章31節~39節
1) ヨハネ伝5章33節――「彼(バプテスマのヨハネ)は真理について証言
しました」
ヨハネ伝1章29節~34節-ヨハネの証言
 またヨハネは証言して言った。「御霊(みたま)が鳩のように天から降って、この方の上に留まられるのを見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせる為に、私を遣わされた方が私に言われました。「御霊(みたま)がある方の上に下ってその上に止まられるのがあなたに見えなら、その方こそ聖霊によってバプテスマを授ける方である」
私はそれを見たのです。それでこの方が神の子であると証言しているのです」
2) ヨハネ伝5章36節――主イエスの行っている業-奇跡
数々の奇跡やメシヤしか行えないとラビやパリサイ人達が言う奇跡をイエスは行っていた。「父が私に成し遂げさせようとして御与えになった業、即ち私が行っている業、そのものが私について、父が私を遣わしたことを証言しているのです」
3) ヨハネ伝5章37節――父、御自身の言葉
マラキから(予言者)キリスト誕生まで暗黒の時代と言われたが、天の父が直接短い言葉を天から懸けられていた。例えば、マタイ伝3章17節-イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられて水から上がられると天が開け、神の御霊(みたま)が鳩のように下ってイエスの上に留まられた。同時に天から告げる声があり、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と天の父の御声がした。
・「私を遣さした父御自身が私について証言しておられます」
4) ヨハネ伝5章39節――聖書はキリストについて証するもの。
あなた方は聖書の中に永遠の命があると思うので聖書を調べています。その聖
書が私について証言しているのです。
ヨハネ伝5章46節――もし、あなた方がモーセを信じているのなら、私を信
じた筈です。モーセが書いたのは私の事だからです。

・聖書はイエスが真の神であり、救い主であると証言しています。当時のユダヤ人達は
ヨハネの証言も天からの神の言葉も聞きました。数々のイエスの奇跡も目の当たり見ました。聖書(旧約聖書)は、よく知り生活の中に入り込んでいます。
・その上でほんの僅かな人達だけが信じました。
・私達はどうでしょうか?――見ずして信じる者は幸いなり。

④マタイ伝11章25,26節
「天地の主であられる父よ。あなたを誉め称えます。これらの事を賢い者や知恵のある者に隠して幼子達に顕して下さいました。そうです父よ。これが御心に叶った事でした。
1)イエスは「天国は幼子達のような者の国です」と言われました。その幼子達に神御自
身と神の国の真理を顕して下さいます。この世の賢い者や知恵のある者には隠されている、即ち判らないと言われます。
・それはどう言う事でしょうか?
Iコリント1章21節――「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは神の知恵によるのです。それゆえ神は御心によって宣教の言葉の愚かさを通して信じる者を救おうとされたのです」
・自分の知恵によって、神を知ることがない、とはどう言う事でしょうか?
例えば、庭の片隅に巣を作って働いている蟻の世界に入っていったとします。
彼等に人間の世界の事、名古屋の事、日本の事、世界の事、宇宙の事を話した
とします。庭の片隅のその世界しか知らない蟻の頭で理解出来ると思いますか?
彼等が信じると思いますか?
・丁度、その様に神の世界は全く別の世界なのです。
自分の知恵によって神を知ることが無いと言うのは、自分の頭で理解しようと思っても、それは土台、無理なことだと言うのです。自分の頭で理解出来たら信じようと言うのは愚かな処方箋です。神を知る為に邪魔をしているのは、この世の知恵だと言うのです。即ち、この世の基準で神を知ろうと思っても無理です。
・では、どうすれば良いのでしょう。
蟻が人間の世界の事、地球の事、宇宙の事を判る為には、そこから来て良く知っている人の話を聞き、ただ受けると言う事においてのみ、その世界が自分のものとして受け取られます。
・その素直に受け取る心の事を指して「幼子の心」とイエスは言われました。
・そうです。「これらの事を賢い者や知恵のある者には隠して幼子達に顕して下さいました」
・イエスの御言を素直に受け取る時に天の事、神の事が心に入って来ます。
・幼子達に顕して下さいました、とは――自分の考えや基準を捨てて(聖書の言葉を)素直に受け入れる心の低い者達の事を指します。
1)マタイ伝11章27節
「凡ての物が私の父から私に渡されています。それで父の他に子を知る者がなく、子と子が父を知らせようと心に定めた人の他は誰も父を知る者がありません」
・私達が天の父を信じ、知る事が出来るのは子(キリスト・イエス)が知らせよう、教えようと定めていて下さったからです。
・ここにも「あなた方が私を選んだのではありません。私があなた方を選び任命したのです」(ヨハネ伝15章16節)と神の選びと召しを見る事が出来るではありませんか。
⑤マタイ伝11章28~30節
 「凡て労する者、重荷を負う者は私のもとに来なさい」
1) 招き―― 一義的には当時の群衆に向けての招き。当時は彼ら民衆は、
パリサイ人達の「律法」や「言い伝え」、規律、戒律にがんじがらめにされて、
身動き出来ない程に縛られていた。それらの重荷で苦しんでいた。
・そして、イエスは現在も凡ての重荷から解放する為に全ての人を招いていて下さる。心の重荷、身体の重荷、人間関係、凡てです。
2)「イ」私は心優しく、ロ)へり下っているから、あなた方も私の頚木を負って私に
  学びなさい」
・主に学ぶ、弟子として学ぶことが励められています。
イ) 主に学ぶ事の最初は、心優しくと言う事
心優しくとは――相手に対して思いやりがある。相手の立
場に立って物事を考えることが出来る優しさ、憐れみの心
がある。一口で言えば愛です。
ロ) へり下っているから――主の謙遜を見習いましょう。
     天地を創造した唯一のいと高き神です。そのお方が人となり人間の罪
を負って下さいました。
天の父なる神に死に至るまで、十字架の死に至るまで従って下さいました。
● キリストの律法とは、愛と謙遜の律法です。
・詩篇119章71節――「苦しみに会った事は私にとって幸せでした。私はそれで
あなたの掟を学びました」
・ここで詩篇の記者が言っている、あなたの律法とは何ですか?
・即ち、キリストの律法、愛と謙遜の律法です。それを学ぶのです。
・神が与えて下さる苦しみと試みによって心低くされ、神への愛と信頼、
人への愛、憐れみ、思いやりが与えられ、愛と謙遜を学んで、試みにあって
良かったと詩篇の記者は語っているのです。
・私達もまた、同じです。
・くびき――車の鼎の端につけて牛、馬の頸に懸ける横木
     ユダヤ教では、その学校に入ることを意味します。
     私達もイエス・キリストとくびきを同じくして、イエスの学校に入って学
びましょう。
3)「そうすれば魂に安らぎが来ます」
魂に安らぎ――人間が求めているもの。意識するとしないとに関わらず、人間は心の底から安らぎ、平安を求めています。反対のものは恐れ、恐怖です。
・ピリピ書4章6、7節――「何事も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝を持って捧げる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知って頂きなさい。そうすれば、人の凡ての考えにまさる神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスによって守ってくれます」


白羽根シオン・キリスト教会