「マタイの召命」

2012年6月24日 聖日礼拝メッセージ 要約

「マタイの召命」(マタイの福音書9:9~17、ルカの福音書5:27~39)

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

召命とは―ある使命を果たすように、神から呼びかけられること

① マタイとその職業について
マタイはイエスの7番目の弟子として召されました
召された時、マタイは収税所に座っていた
 
1) 収税人について ユダヤではユダヤ人が収税人になることを禁止していた
            ローマはユダヤの税を取り立てるのに、ユダヤ人の収税人に税を入札させて徴税を請け負わせていた
2) 彼らが嫌われた理由
A) 禁止されている収税人となり、異邦人の手先として働いている売国奴であると軽蔑されていた
B) 同胞から搾取して豊かになった人という理由で嫌われていた

3) 社会的に交わってもよい(許可された)人達
ユダヤ教のラビ達は、収税人と交わってもよい人達を決めていました
A) 同じ収税人の仲間
B) 罪人 (マタイ9:11 マルコ2:16 ルカ5:30 3ケ所とも同じ内容)
この罪人とは遊女、娼婦たちのことです

4) 収税人の種類
税を集める2種類の収税人がいました
A) 取得税を集める収税人
B) 通行税、関税等を集める収税人
同じ収税人の中でも、通行税をとる人は最低と考えられていました
なぜなら、ごまかしが大幅にきくためです
・マタイは収税所に座っていたとありますから、この通行税をとる収税人でした

② イエス、マタイに目をとめられる(ルカ5:27.28)
「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという収税人に目を留めて、
『わたしについて来なさい』と言われた。
するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」
 
 ・ここでレビと書かれているのはマタイの事です。マルコの福音書には
「アルパヨの子レビ」とあります。イエスはマタイの顔に目を止めて、声をかけられたのです。
・マタイは取税人となり、金持ちにはなりましたが、それで心が満足していた訳ではありませんでした。寂しさ、空虚さが顔に表れていました。心の貧しい人でした。
・彼はイエスのことを聞いていて、自分たちが待ち望んでいたメシヤ―自分が仕えているローマの権威よりも勝る方-だと感じていたのではないでしょうか?
・それで、イエスから声がかかった時に、ただちに従ったのです。

イエスの方からマタイを召して下さったのです。
このことを今の私達に当てはめて考えてみましょう。

・神様は私達にいつでも神の方から呼びかけて下さいます。
ヨハネの福音書1:12,13
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
・人間的な血筋、血統、家柄ではなく、人間の欲や人間の意志、財産や知恵によってでもなく、ただ神によって生まれたのです。
・ただ神によって生まれた、ということは、みな神様からの召命があり、神様が世の初めからその人の救いを計画していて下さったという事です。
 エペソ人への手紙1:4
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
・そして、選ばれている者はいのちの書にその名が記されていることが聖書に書かれています。出エジプト記32:32 ではモーセが彼のとりなし祈りの中でその事について述べています。
 他の聖書箇所として
 ヨハネの黙示録17:8
 「地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現れるのを見て驚きます。」
 ヨハネの黙示録20:12
「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。」
ヨハネの黙示録20:15
 「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」

 ・私たちは皆、神様から一人一人選ばれて召された者です。
  主の選びと恵みを感謝しましょう。

③ マタイの生まれ変わり(ルカの福音書5:29)
「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、収税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓についていた。」
・マタイは本当に嬉しかったのです。そしてうれしくて友達を招いて、お祝いに大ぶるまいをしました。
・この時はまだ、イエスが十字架にかかられる前です。ですから、この時点でのイエスの福音は、ご自分が聖書に予言されているメシアであることを数々の奇跡を伴って示されました。そして、人々がイエスをその様に受け入れるために、バプテスマのヨハネが先につかわされていたのです。
・そして、マタイはイエスをその様に受け入れ、方向転換したのです。
彼の心に喜びがあふれました。そして、大ぶるまいという形となって表れました。

④ パリサイ人のメシア像
それを見たパリサイ人たちが文句を言いました。
「なぜ、あなたがたの先生は、収税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
(マタイの福音書9:11)
 彼らが、続けて言いたかった言葉を訳すと、
「もし、イエスが本当のメシアなら、収税人や罪人と一緒に食事をするはずはないでしょう。」ということです。
・彼らは、メシアが現れるとしたら、それは自分たちの仲間であり、収税人や遊女たちなどは、相手にするはずがないと思っていたのです。

⑤ それに対するイエスの3つの答え
1) マタイの福音書9:12
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」
パリサイ人たちは、自分たちは霊的に健康で、収税人は霊的に病人であるとしていました。イエスは霊的医者なので、霊的な病人のところに行くのです。
2) マタイの福音書9:13
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」
・パリサイ人たちはいけにえは多くささげたが、あわれみの心は少なかったのです。
・いえにえを好むとは―律法の要求を外面だけは事こまかに実行していた
・あわれみを示すとは―律法が要求している内面、心の中の状態、律法の外面を行うための動機
・あわれみが足りないということが、収税人等に対する様々な規定を作り出す結果となっていたのです。

3) マタイの福音書9:13
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
・パリサイ人たちは自分たちを義人とし、収税人たちは罪人としていました。
・そこでイエスは罪人だとレッテルをはられている人の所に行って、悔い改めさせるのがご自分の仕事であると言われたのです。
・キリストは今も、自分を罪人と認める人々の救い主です。
 イエスは、自分たちの罪のために心をいためている人々のために来て下さいまし
た。
   ・人との比較ではなく、神の御前に立った時に自分は罪人であると認める事の出来る人は幸いです。その人のためにキリストの十字架による身代わりの死があり、その血による罪の赦しがあります。
   ・その人の名前は命の書の中にあるのです。

白羽根シオン・キリスト教会